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令和時代は穏やかに幕をあけたが、明治の幕開けは大変だった

投稿日:2019-05-01 更新日:

2019年5月1日本日、令和時代が始まった。
街は令和一色というわけではないが、少なくともテレビではEテレ以外は即位の儀式を報じている。

AM10:30 天皇の証となる神器と印の承継の儀式が始まった。
昭和から平成のときは、さほど感慨はなかったが、30年以上年を重ねると感じることは変わるようで歴史の1ページを目撃できて感激した。
昭和から平成のときは、1月7日の天皇の崩御のあとすぐ1月9日に行われたので、どちらかというと悲しみムードで祝賀ムードではなかったと思う。

AM11:10 国民の代表へのお言葉
国民からの代表は安倍総理だった。安倍総理の言葉の中で、印象的だったのは文化という言葉。経済発展を望むのではなく文化的な繁栄だとしたこと。
皇室が時代とともに在り方を変えるように国民もまた時代とともに在り方を変えていくのだろう。

今回、穏やかに皇位継承が行われたのは、天皇の崩御によるものではなく、計画的に継承が行われたからに他ならない。
江戸時代は災いが起きると改元することがあったが、近年は天皇の崩御に伴い改元するようになった。

昭和から平成は、1989年、昭和64年1月7日、昭和天皇が崩御され、改元された。

大正から昭和は、1926年、大正15年12月25日、大正天皇が崩御され、同日以後を改めて昭和元年とする旨の改元の詔書が発せられた。

しかし慶応から明治への改元は少し趣が違う。

1868年、慶応4年7月17日、江戸が東京に改称され、『9月8日に明治と改元されたが、薩長政府に反感をもつ江戸っ子たちは、「明治」を下から読んで「治(おさ)まる明(めい)」などと言ってはやしたてた』とのこと。

今までは江戸幕府の元、都を謳歌していたのに、薩摩長州の田舎ものが新政府と名乗って江戸の町を支配されたのが気に入らなかったのだろう。

口の悪い江戸っ子の当時の心境がうかがえるエピソードで大変おもしろい。

勝海舟と西郷隆盛の話し合いにより、江戸での幕府と新政府軍との全面戦争は避けられ、『江戸城は無血開城となったが、路頭に迷う旧幕臣や下級藩士の反発が強かった。凶作や外国への輸出が増えたことにより物価が高騰、全国で新政府への不満がました』とのこと。

そこで『庶民を引きつけ、天皇の権威を一段と高めるため、新政府は奇策にでた。天皇の東京への行幸である

現代は行幸はないが、赤坂御所から皇居まで新天皇の移動の様子をTV各局が生中継をした。政府やメディアとも打ち合わせ通りに事が進み、無事に儀式は完了した。

明治天皇の行幸は『一行2000人が二十数日かけ、京都から東海道を下り、10月に江戸城に入った。

天皇のありがたさを知らしめるために、新政府は道中の孝子(親孝行な子)や節婦(貞節な女性)に褒賞を与え、70歳以上の老人には金品まで与えた。

さらに11月に入って、東京の市民にお酒が下賜(かし)される。役所から酒樽を受け取った町の代表が、旗を立てかねと太鼓でにぎやかに持ち帰る光景が市内各地で見られた。しかもスルメ付きである。

翌日から、東京中が大騒ぎ。山車が出て、花火が上がり、家業を休んで3日間も祭りのような日が続いた』という。

『幕末・維新の江戸・東京を歩く』平成御徒組より引用

現在では考えらない策だ。

江戸から川崎宿に入る六郷橋を渡ったところに明治天皇行幸の記念碑がある。天皇が東京に行くだけのことがなぜ大ごとになっているかと思っていたが、こんな背景があったとは。

〈多摩川 六郷橋の船橋〉……東幸の通過 明治元年10月12日

 明治元年(1868)にも天皇東幸のため船橋が造られた。川幅は約106メートル、ここに舟36艘を並べ、杭を打って舟を固定させた。舟の上には板を敷き詰めて渡河した。

「六郷の渡し」で渡河する明治天皇の東幸行列

明治の庶民にならえば、令和は「和が0(れい)になる」、”足して0になる”ということになるが、令和の時代はどのようになるか。

楽しみである。

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