銀貨の鋳造・発行を管轄する銀座
京橋の町を過ぎると次は銀座の町に入ります。
銀座1丁目の交差点を過ぎて、銀座2丁目の歩道に銀座役所跡の碑があります。
銀座発祥の地(The Cradie of Ginza)
「銀貨の鋳造・発行を管轄する徳川幕府の役所が慶長17年(1612)この地に開設、「銀座」の地名の由来となりました。」
銀座2-7先
銀座とは銀貨鋳造所のことで、慶長17年に銀座を駿府(静岡)からこの地に移したとのこと。
銀座一~四丁目は、明治2年に新両替町・与作屋敷(一部)・三十間堀(一部)の別称を正式名称としたものです。その後、昭和5年に尾張町ほか9町を銀座五~八丁目とした際、その西側に位置する南紺屋町ほか15町を銀座西としました。
旧)銀座東の町名は、銀座の東側に位置する木挽町と、銀座との間にあった三十間堀川が埋め立てられ、地続きになること、また銀座の西側に銀座西があったのに対応して、地元住民の希望が実を結んでできた町名です。
銀座は、現在1丁目から入り8丁目まで続きます。
朝鮮に威光を示す芝口御門
芝口御門跡
銀座の8丁目から新橋に入る高架の手前を左に曲がると芝口御門跡があります。
所在地 中央区銀座八-八・九・十付近
ここの南方、高速道路の下には、もと汐留川が流れ、中央通り(旧東海道)には、昭和三十九年まで新橋が架かっていました。
宝永七年(一七一〇)、朝鮮の聘使(へいし)の来朝に備えて、新井白石の建策にもとづきわが国の威光を顕示するため、この新橋の北詰に、現に外桜田門に見られるような城門が建設されて、芝口御門と呼ばれ、新橋は芝口橋と改称されました。
城門は橋の北詰を石垣で囲って枡形とし、橋のたもとの冠木門から枡形に入って右に曲がると、渡櫓があって堅固な門扉が設けられていました。しかしこの芝口御門は建築後十五年目の享保九年(一七二四)正月に焼失して以来、再建されず、石垣も撤去され、芝口橋は新橋の旧称に復しました。
さて、現在新橋があった上には高架があります。
高架の下をくぐる手前に銀座の柳2世の看板がありました。
高架をくぐると、銀座柳の碑があります。
明治7年(1874)舗道ができ柳が植栽されたが大正12(1923)の関東大震災で焼失してしまったとのこと。
そして新橋の親柱の碑もあります。
ここを過ぎると銀座の街がおわり、新橋の街へ入ります。